筑紫哲也の訃報に接した昨晩、何か徐々に寒暗い寂寥感に襲われ、それを埋めようと、普段は控えているアルコールを口に入れた。誰かと何かを話したかったが、それもできないまま重苦しい孤独な時間が流れ、ようやく報道ステーションとNEWS23の放送があって、それを見て少し心を落ち着けることができた。筑紫哲也のがんは治るものだと思っていた。全身に転移していたとは知らなかった。年齢もまだ73歳と若く、そして本人の性分を考えれば、必ずテレビの報道現場に復帰するだろうと考えていた。最後にNEWS23で筑紫哲也を見たのは6月初めで、それは立命館大学での講義に鶴見俊輔を呼んで話をさせた
特集だったが、京都駅の構内を支障なく歩き、学生やスタッフと闊達に話していて、とても半年後に危篤になる重病の人のようには見えなかった。あのとき、自分の余命の時間を知っていたのだろうか。鶴見俊輔の大哲を前にした筑紫哲也は、まるで20代の書生のような態度と表情で、ノ-トを録りながら熱心に鶴見俊輔の講話に耳を傾け、車のお見送りに足を運び、深々と頭を下げて礼を尽くしていた。その姿に感動させられた。
昨夜のNEWS23で、宮崎駿の手書きのFAXが送られてきて、それが読み上げられたが、その中で、今の世界金融危機の情勢に接して、きっと筑紫哲也は血が騒いでわくわくしているのではないかと思っていたと書かれていた。私も宮崎駿と同じことを思っていて、この百年に一度の金融危機の大事件に立ち会って、筑紫哲也は何か発言をしたくてたまらないだろうと思ったし、NEWS23に出て来ないのが不思議だった。オバマの勝利と勝利演説についても同じで、われわれは筑紫哲也の発言や感想を聞きたかったし、これらのニュースに最も意味のある解説を与えられる大型の報道人が筑紫哲也だった。本人もさぞ無念だっただろう。宮崎駿と二人で対談するのを番組で二度見たが、宮崎駿と中身のある議論ができて、それを完成度の高い報道映像のコンテンツに残せるのは、筑紫哲也しかいなかったし、他の人間では絶対に真似ができない。それは梅原猛とも同じで、知識人だから知識人の相手がよくできた。テレビ・ジャーナリストという言葉をあまり使いたくないが、他の人間と筑紫哲也との違いは、
知識人であるかどうかであり、学問的知性の素養を身につけているかどうかである。
筑紫哲也は正統派の知識人だった。NEWS23の「多事争論」の中でも、おそらく一度ならず、丸山真男のことを取り上げて紹介していた。丸山学派に連なる者としての自負を持っていたように見受けられた。ずっと以前は、まともに勉強もしていないくせに、「箔」を目当ての俄か丸山学派など気取って欲しくないと胡散臭く思っていたが、今となっては、丸山真男の本を読んだこともない人間ばかりが報道や論壇を闊歩していて、筑紫哲也のような知性は皆無になってしまった。今、敢えて言えば、丸山真男を語ることができるかどうか、自らを丸山学派に連なる人間だと言えるかどうかが、この日本で、その者が知識人であるかどうかの一つの判断指標だろう。筑紫哲也は合格だった。知性や学識を持った報道人がいなくなり、そうした報道人が求められなくなった今の日本が淋しい。報道の世界をこれほど軽薄で絶望的にした責任の一端は、きっと筑紫哲也自身にもあると言えるはずだけれど、特にイラク戦争が始まってからは、筑紫哲也は世間の流れに流されることがなくなり、自分の使命感に忠実に従って真剣に報道をするようになった。イラク戦争からの一言一言は、すべて遺言のようであり、戦争を経験した者の責任感に満ち溢れていた。
イラク戦争が始まる直前、バグダッドに飛んで現地を取材して報道したことがあったが、ユーフラテス川を船で下りながら、戦争前夜の静かで喉かなバグダッドを伝えていたのが印象深く残っている。昨夜の鳥越俊太郎も言っていたとおり、戦争という問題、日本を二度と戦争の道に引き込んではならないという決意、言論の自由を奪って戦争へと政治を方向づける権力者の意図や謀術を監視し阻止するという報道人の責務について、イラク戦争以降の筑紫哲也は妥協しなかった。孤軍奮闘し、その中で誰よりも鋭い知性を光らせ、知識人のジャーナリストとしての器量と風格を上げていた。ジャーナリストの理念型。今の時点で言えば、筑紫哲也はジャーナリストの理念型であり、ジャーナリストという言葉が積極的な意味を帯びて一般に響くのは、そこに筑紫哲也の面影と活躍があるからである。立派な人生だった。庶民の立場から言えば、筑紫哲也の存在があったから、朝日新聞のブランドを信用し、ジャーナリストの肩書の職業者たちを信頼していたのだが、それは全くの間違いで、すっかり裏切られ、新聞記者やジャーナリストという肩書の人間には疑いの目を向けるようになっている。どうしてこうなったのか、病を癒して復帰した筑紫哲也に説明をして欲しかった。
名コンビだった立花隆が東京新聞に
談話を寄せている。立花隆は、筑紫哲也の全ジャーナリスト人生を聞き取るプロジェクトを進行させていたと語り、筑紫哲也のことを「戦後日本が生んだ最大のジャーナリストと言って過言ではない」と言っている。だが、今から20年ほど前、リクルート事件や佐川急便事件の頃はそうではなかった。筑紫哲也の方が立花隆を「戦後最高のジャーナリスト」として尊敬し、敬服し、明らかに立花隆の方が筑紫哲也よりも格が上の存在と立場だった。両者の彼我が逆転したのが、やはりイラク戦争の開戦の頃だろうか。立花隆は、本来の天職である政治ジャーナリズムから逸脱し、サルだの宇宙だのに向かい、「文理両道」のダヴィンチ的万能の誇示とカリスマ証明に夢中になっていた。理工系の知識を文科系の読者の前で威張ることに無用に時間を費やし、その趣味は、糸が切れた凧のようになって奔放に宙を舞い、90年代は東大フェティシズムに執着し、東大と天皇の大研究者になり、中途半端に現在に至っている。現在の立花隆は、ジャーナリストの表象よりも東大オタクの評論家の印象が強い。政治権力を暴露し批判する眼光の鋭さは過去のものになった。立花隆と筑紫哲也のジャーナリズムのクオリティの面での20年のクロスとシェーレについて、私は複雑な思いを抱かざるを得ない。
昨夜、一報に接したとき、正直に、「この日本はどうなるのだろう」という思いが浮かんだ。しかしそれは、常日頃考えている当の問題であり、少なくとも私の中では、ふと急に、外からの情報の刺激で頭に思い浮かぶ種類の関心や懸念ではないはずなのだが、筑紫哲也の死はやはり大きく、意外な衝撃であり、日本の将来に暗い影を落とす不吉な出来事であることを無意識に感じ取ったのに違いない。代わりになる人間がマスコミにいない。強いて挙げれば、国谷さん、そして鳥越俊太郎だろうか。国谷さんは筑紫哲也になれるだろうか。われわれに必要なのは、正統な知識人のジャーナリストである。ネグリを読み、サイードを読み、村上春樹を読み、それらを縦横に論じながら、歴史的文脈の中で現代政治を分析できる人間でなくてはいけない。私は、できれば、NEWS23で薫陶を受けた直系の
佐古忠彦に出てきて欲しいと願う。本格的なテレビ・ジャーナリストとして大成して欲しい。昨夜のNEWS23には声で出演していた。NEWS23の中で、筑紫哲也は繰り返し何度も「投票へ行こう」と呼びかけていた。何度も、何度も、「投票へ行かなければ政治は変わらない」と言い、「投票日の瞬間だけは国民が民主主義の主人公になる」と説いていた。まさに民主主義の偉大な伝道師だった。
忘れずにいよう。いつも筑紫哲也を思い出そう。立派な真の丸山学派だった。合掌。