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本と映画と政治の批評
by thessalonike5


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自爆テロとしての秋葉原通り魔事件 - 動機と格差社会の臨界点
自爆テロとしての秋葉原通り魔事件 - 動機と格差社会の臨界点_b0090336_1424714.jpg秋葉原通り魔事件についてマスコミで報道されている内容で、特に加藤智大に関する情報は、ほとんど全て警察から流されている情報である。だから、新聞やテレビの報道を見ていると、警察がこの事件をどう捜査し、どのように国民に構図を描いて見せ、どう立件して着地させようとしているかを推測することができる。毎日新聞の6/11の記事では、派遣先の関東自動車工業が、犯行9日前の5/30に加藤智大に解雇通告を出していた事実の判明を報じていた。この事実を確認してプレスに流したのは捜査本部であり、ここまで明確に警察発表が出た以上、関東自動車側はもはや解雇通告の事実を否定することはできない。関東自動車による加藤智大に対する解雇通告は、捜査当局によって加藤智大が事件犯行に至った動機の核心に位置づけられた。立件の際の起訴状にその事実が明記される。警察は事件の動機の中心に関東自動車の派遣問題を据えたのであり、すなわち、今度の事件の責任範囲に関東自動車を含んだことを意味する。



自爆テロとしての秋葉原通り魔事件 - 動機と格差社会の臨界点_b0090336_1425959.jpg検察が、背景を含む事件構図に関東自動車の派遣労働実態を入れて「構成要件」のデッサンを描き始め、それに沿って捜査を展開し、その捜査路線をプレスにリークしているということであり、間接的に関東自動車の責任が追及される事態が浮き彫りになった。関東自動車側は6/9の記者会見で解雇通告の事実を否定しており、捜査本部の事実認識との間で齟齬と矛盾が生じている。関東自動車側が次にどのような対応を見せるか不明だが、警察は間違いなく関東自動車側の責任を捕捉する構えであり、関東自動車の再度の釈明会見、関係労務責任者の処分、今後の派遣労働者の処遇改善は避けられない情勢だろう。7人の人間が死んでいるのである。関東自動車が加藤智大に解雇通告をしなければ凶行が発生することはなかった。法廷では、検察側と弁護側の双方が、関東自動車東富士工場現場における派遣労働者の過酷な待遇実態を暴き出すに違いない。もしこの捜査当局の動きに対して関東自動車が争いの姿勢を見せる場合は、恐らく静岡労働局が動いて、沼津の基準監督署から関東自動車工業と日研総業に査察が入るだろう。

自爆テロとしての秋葉原通り魔事件 - 動機と格差社会の臨界点_b0090336_1431029.jpg動機の解明が必要とか、動機の解明が待たれるとマスコミは言う。なぜ動機の解明が必要かと言えば、犯罪者の心理と事件の因果関係を明らかにすることによって、今後二度と同じ事件を起こさないように社会が努めるためである。同じ動機を作らせないようにするためである。今回の事件の場合、動機の中心に派遣労働の過酷で不当な待遇実態(とそれに対する不満)が据えられることになれば、再発防止のためには派遣労働について何らか規制や改善が必要という認識に一般の社会通念が向かう。この事件は、誰が見ても起こるべくして起きた事件であり、同じ境遇にある別の人格によって再発が惹起される可能性が高い事件であり、容疑者個人の性格の特殊性や異常性に還元できない(労働法制に起因する)社会病理的な問題系を孕んでいる。関東自動車の親会社であるトヨタは、事件解明の関心や視線が派遣労働に及ばないように手を尽くし、言われているように検察や自民党に圧力をかけて、捜査当局が関東自動車の派遣労働問題を「動機」に含めないように妨害するに違いないが、ここは地検の検事がテーミスの神の僕として敢然と正義を貫くことを期待したい。

自爆テロとしての秋葉原通り魔事件 - 動機と格差社会の臨界点_b0090336_1432286.jpg以下は、読者に失言や暴言の類として判断されて物議を醸す不安もあるけれど、私には、今度の加藤智大の秋葉原通り魔事件がイラクやアフガンのイスラム原理主義者による自爆テロと似た現実のようにも見えるのである。テレビ報道や2ちゃんねる掲示板では、加藤智大が携帯掲示板サイトに綴った自虐モノローグの集積に対して、それを論外で身勝手だと断罪したり辛辣に罵倒したりする意見がもっぱらだが、あそこに表出されている若者の救いのない孤独感や疎外感や絶望感というのは、私は決して罵倒や愚弄の対象になるものではなく、この社会の病状と惨状を人間の内面から投射した現代人の告発だと思えて仕方がないのである。もっと言えば、一つの写生であり、文学であり、石川啄木の三行詩の世界にも通じる内面性があり、私がブログで毎日やっている排泄(煩悶や呻吟や鬱懐や)とも何も変わりないように見える。携帯サイトには「女にもてない」劣等感が綿々と吐きつけられていて、それは「女の愛が欲しい」希求そのもので、正常な肉体と精神を持った25歳の男なら当然に持つ欲望とそれが現実に満たされない屈折と鬱積の吐露である。石川啄木も同じだった。

自爆テロとしての秋葉原通り魔事件 - 動機と格差社会の臨界点_b0090336_1433171.jpg6/6に福井の店でナイフを購入するときのカウンターでの映像がテレビ報道で何度も出てくる。あのとき、加藤智大は応対する店員と笑顔で話していて、携帯サイトにも「人間と話すっていいね」と本心を漏らしている。テレビ報道では、加藤智大が人とのコミュニケーションに飢えている一面を顕著にあらわす場面だという解説になっているが、それだけではない。注意して映像を見ないといけない。店員は若い女性なのだ。だからこそ、加藤智大は、「静岡から来た」とか「本籍は青森だ」とか言い、雪かきの仕草をして饒舌になっているのである。単に人とのコミュニケーションに渇望していたのではなく、その渇望の対象は若い女性だった。私は、加藤智大を弁護するつもりは毛頭ないし、恐らく、この男と同じ職場で仕事をしたり、日常で接触する機会があれば、「キレやすい嫌な男だな」と瞬間的に判断して距離を置いただろうし、親しい関係になるよりも「話しにくい相手」として不信や警戒の視線を与える方が多かったに違いない。間違いなくそうだっただろう。だが、そういう人間は多いのであり、加藤智大の方から見れば、私の方が、同じく鏡を見るように、そういう「話しにくい嫌な男」に見えていたに違いないのだ。

自爆テロとしての秋葉原通り魔事件 - 動機と格差社会の臨界点_b0090336_1434190.jpgもう10年ほど前、パレスチナの過激派が自爆テロ攻撃を始めたとき、確か、女子大生だったと思うが、最初の女性自爆テロリストによる自爆決行があり、エルサレムのバスの中か繁華街の店の前で体に巻きつけたダイナマイトを爆発させた。イスラエルの一般市民が何人か犠牲になった。記憶が明確でないけれど、彼女の婚約者がイスラエル軍に殺害されていて、彼女の両親や弟もイスラエル軍の攻撃で殺されたという絶望的な事情を背負っていて、自ら志願して自爆テロ戦士になっていた。彼女が犯行前にアジトで遺言ビデオを撮影していて、当時は世界も日本も今ほど極端にイスラエル寄りではなかったから、日本のニュース番組でその映像が放送されたが、「眠れるアラブの兵士たちよ」から始まる言葉は、サウジやエジプトやシリアの同胞に眠りから覚めて聖戦に決起するよう呼びかけていた。あの女性テロリストの遺言メッセージと加藤智大の携帯サイトの自虐モノローグが私には重なって映るのである。ある種の自爆テロなのではないか。攻撃の物理的対象は一般市民だが、そこには社会的な主張と目的があり、言わば真の敵がある。真の敵は、派遣労働制度の格差社会であり、そして加藤智大の両親だったのだろう。

自爆テロとしての秋葉原通り魔事件 - 動機と格差社会の臨界点_b0090336_1435120.jpg加藤智大が短大で整備士の資格をとっていなかったことや、高校時代の勉強不足について「甘え」と「自己責任」の論理で糾弾し罵倒する声が多くある。本人の努力不足で自分を追い詰めたのだから社会のせいにするなという批判である。格差社会の中で皆が歯をくいしばって我慢しているからという論法である。本当にそれで納得できるのだろうか。皆が我慢しているのだと言っているのは、年収1億円か2億円の古館伊知郎だったり、テリー伊藤だったり、その他の定番マスコミ解説者である。2ちゃんねる掲示板に一日中張り付いて派遣を罵倒する寸言投稿を大量コピーペーストし、自己責任イデオロギーを掲示板中に散布しているのは、どこかのオフィスから職業的に書き込んでいるプロ新自由主義者か、竹中平蔵と木村剛を神と崇める新自由主義信者のデイトレーダーではないのか。我慢が限界に来ているのである。格差社会の窮状が臨界点を超えつつあるのである。新自由主義者の自己責任論を聞きながら、「負け組の努力不足」論や「日本の格差は外国と較べればまだまし」論を聞きながら、私は鶴見俊輔の言葉を思い出した。「1番になるということは世間に屈服するということですよ」。人はそれぞれ個性を持ち、自分らしく自由に生きようとしている。

自爆テロとしての秋葉原通り魔事件 - 動機と格差社会の臨界点_b0090336_144277.jpg自由に生きようとすれば、世間の屈服要請とぶつかり、どこかで折り合いをつけなければならない。折り合いをつけるのが上手な人間と下手な人間がいる。世間に屈服しなかった一つ一つが、その人間の人生のハンディとして履歴にデータベースされる。失点加算され、相対評価でランクを落とされ、「負け組」の身分証明書を発行される。格差社会は資格社会だ。だが、例えば、国家資格なんか持っていなくても、自動車整備の優秀な知識や技能を持っている人間はいるのではないのか。他の人間より図々しくでしゃばれなかった者がいる。他の人間よりチャンスに図太く立ち回れなかった者がいる。他の人間ほど上手に上役にお世辞が言えなかった者がいる。他の人間ほど注意深く組織への気配りができなかった者がいる。酒席で気を許して本音を口に滑らせてしまった者がいる。気の合わない得意先の前で感情を顔に出してしまった者がいる。そうした些細な仕事上の瑕疵が積もり積もって人生の相対評価の失点履歴になり、本来の実力や努力を無駄にしたりさせられている例は山ほどあるのではないか。再出発をめざす人生のスタート位置を後ろへ後ろへ引き下げられているのではないのか。その局面を巧く立ち回って、要領の悪い人間を下へ引き摺り落とした人間が、その成果をあくどく厚顔に得て、かろうじて「勝ち組」に生き残っているのが真実なのではないのか。

犯行が社会への復讐であり、格差社会への告発であるという認識は変わらない。
自爆テロとしての秋葉原通り魔事件 - 動機と格差社会の臨界点_b0090336_1441156.jpg

【世に倦む日日の百曲巡礼】

1983年の ポール・マッカートニーとマイケル・ジャクソン『セイ・セイ・セイ』 を。

マイケル・ジャクソンが時代のヒーローになり、渋谷や自由が丘でカフェ・バーの業態が大流行した頃のヒット曲。プロモーションビデオが面白いストーリー仕立てになっていて楽しめます。奥さんのリンダが元気な姿で出てますね。音楽より女優の方が彼女は生きる。この15年後に56歳の若さで癌で死にました。


月刊プレイボーイに彼女のインタビュー記事が載ったことがあり、最初は音楽は素人だったけれど、だんだんできるようになって、今では小さな田舎のバンドだったら自分がリードをとれると語っていました。実家の関係もあったのか写真が上手で、『パイプス・オブ・ピース』のアルバムに彼女の作品がたくさん出ていましたね。

ということで、同じく1883年の 『パイプス・オブ・ピース』 も二本立てでご紹介しましょう。このビデオは秀逸で、第一次世界大戦の塹壕戦がモチーフになっているのですが、この頃、欧州では中距離核(IMF)配備の問題で東西両陣営が一触即発の状況にあり、核戦争勃発の危機が欧州平原に現出。欧州中の若者が反核反戦運運動に立ち上がったのです。『パイプス・オブ・ピース』はそうした背景の下でポールが作った渾身の反戦歌でした。


その流れは、1985年のゴルバチョフ登場と1986年の歴史的なレイキャビク会談へと繋がって行きます。ジョンほどではないにせよ、ポールもまた偉大なビートル。世界の平和のために尽力奮闘しました。

by thessalonike5 | 2008-06-11 23:30 | 秋葉原事件
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