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辺見庸のマチエール論ときっこの日記 - ネットの中での再生と回復
b0090336_1130041.jpg特集番組の中で辺見庸が論じていたキーワードの一つが「マチエール」だった。手ざわり感、触感、表面の質感、材質感という意味のフランス語(matiere)で、油絵の絵肌を表現するときなどにも、この言葉が使われる。岩波の哲学・思想辞典と平凡社の哲学辞典を捲ったが、この用語の記述はなく、辺見庸が独自の意味で使っているように思われる。ある日、足立区の中学校で講演する機会を得た辺見庸が、生徒たちの前で「もの食う人びと」の話をする。その中学校は、殺人以外は何でもありますと校長が言う荒れた学校で、全生徒の2割が生活保護受給家庭で、何割かが給食費を払えず、しかも、母親が風俗で働いて収入を得て、男と同棲をしている家庭が多く、場合によっては母親が自宅で「商売」をしているような、そんな家庭環境を持つ子どもたちが通う学校だった。彼らは机に足を上げ、顔をそむけて窓の外に目をやり、鼻歌を歌って話を聞いてない素振りをしながら、片方の耳で辺見庸の話を聞いている。講演が終わって、話を聞いてなかったはずの男の子が辺見庸に質問を発する。「先生、女、買ったことある?」。



b0090336_9584366.jpg辺見庸は、ドキッとしながらも、「このガキに嘘はついちゃけない」と思い、「あるよ」と答える。そして、これが言語のマチエールだと言うのである。社会から切断され、孤絶化され、感覚を奪われ、携帯とPCのスクリーンの世界だけと向かい合っている現代人が、言葉で響き合う(インタラクトする)瞬間を持つこと。言語の力を知ること。辺見庸が、「あるよ」と彼に正直に答えたのは、その子がマチエールの意味を知っていて、母親が金で男に抱かれるマチエールを知っていて、だからこそ、その質問を言葉にして発したことに感動して、「よくぞ言語化して俺に言ってくれたな」と思ったからだった。辺見庸によって「マチエール」はそのように説明される。ただそれだけの説明を私は番組で聞いただけで、それ以上の知識も情報も持ってなく、家の中にある7冊の辺見庸の本の中には「マチエール」の説明はなかったので、何も理解的整理的には再構成して議論できないが、思い浮かんだことが二つあった。辺見庸のマチエール論と重なり繋がるかどうか自信はないが、一つは昨年3月の反貧困フェスタでの体験である。そのときのことは、印象が大きかったので記事にして書いた。あれは、神田一橋中学校の教室で集会の話を聞いて、外へ出て校庭のテントのバザーで反貧困のロゴの入ったハンドタオルを買ったときのことだった。

b0090336_9585713.jpg500円のハンドタオルを買い、千円札を1枚出して、500円のお釣りをボランティアの若い女性から受け取ったときの経験である。15秒か20秒の時間だったが、空気が震え、電流が走り、内側から目と鼻の粘膜に刺激が起きて、時間が止まったような感覚になった。最も正直で適当な表現を言い嵌めれば、お釣りを受け取った次の瞬間、心の中でわんわん泣いていたというのが正確になる。何も言葉は交してはいない。「これ一つ下さい」「はい」だけである。だが、きわめて主観的な言い分で、勝手な言い分かも知れないが、何も言わなくても分かったのだ。考えていることは同じなのだ。心の中は一つなのだ。あのイベントもボランティアが支えていた。若い人たちが多かった。生活に余裕のある人たちの趣味のボランティア活動ではない。仕事と生活に追われる中で、大事な休みの土曜日をそれに使っていることは、雰囲気でひしひしと伝わってきた。彼女は、おそらく、これまで一度も人に商品を販売してお金を受け取るなどという経験はしていない。そういう仕事に一度も手を染めてないという感じだった。お金のやりとりをするということが、そぐわない行為であり、関係であり、場であるということが、互いによく分かり、痛いほど分かっていて、売る方も買う方もぎこちなくなった。切ない時間、痛切な時間が流れた。私の最近のマチエール体験である。

b0090336_95999.jpgもう一つ、辺見庸のマチエール論を聞きながら思い浮かんだのが、きっこの日記の告白だった。昨年の4月27日の日記の中で、17歳のときのレイプ事件の被害体験を告白している。私は、マチエールとは無関係な、全く的外れなことを言っているのかも知れないが、そして、きわめて主観的な思い込みかも知れないが、あの記事の後で、きっこの日記の文章の表現が柔らかく変化したように思われる。それは、実際にそのように客観的に変わったのではなくて、私の見る目が変わっただけかも知れないけれど、以前のような攻撃性や粗暴性の印象を受けることが少なくなった。そしてまた、きっこの文章が、なぜあのような、意識的に粗暴性が強調されたような表現になっていたのかを知ったような気分になった。人はいろいろなものを引きずっている。バブル崩壊から20年近い時間、そこに身を置いてきた人間は、多かれ少なかれ、傷つき傷つけられた体験を重ね、それを引きずって生きている。それは弱い者ほどひどく傷つけられる世界であり、そして、傷つき、奪われ、失った者が行き場を求めてさまようのが、ネットの世界だった。外のリアルの世界で受けた心の傷と、ネットの世界で受けた傷、現代人の多かれ少なかれが、この二つの傷と無関係でなくて、辺見庸的に言えば、全ての表現が生体反応的になる。ニュースで出る残酷な殺人や婦女暴行殺人や一家心中が、心の傷を痛さを思い返させる。

b0090336_9592021.jpg辺見庸は1/30号の週刊金曜日の中で言っている。「いわゆるプレカリアートの人たちに共通するのは、この『リア充がない』ということです。セックスでもそうだし、音楽でもそうですが、自分の生身を満足させるリアルなマチエールがない。十分な文化・娯楽に身を置く経済的な余裕をもたされていないからです。金持ちは携帯サイトに投稿したりしないのです。モニター画面を商売にするようなものの多くが貧困ビジネスです。金持ちは実際にオペラを観にいくが、貧乏人はYouTubeを見るかネットで関係性を探すのです。そこに生体的なバランス失調というものが生じ、歪みが生じる。生体が悲鳴を上げているわけです。明示的に言えば、派遣とか貧困とか労働の問題が大きいわけですが、それだけではなく、現在のデジタル資本主義が人間の生体を目には見えないところでいじめてきたということも背景にあると思う(中略)新しいメディアは、新しい現実を生産、再構成をしていき、人の内面をつなぐのでなく逆に切断しました。人は以前より孤立化を深めたのです」(P.20)。おそらく、年収200万円以下の働く貧困層の人々も、PCを持ってネットを見る日常生活をしている。加藤智大の携帯サイトのように、現実の世界で生きる場のないわれわれは、ネットの世界で生きる場を探して放浪を続けている。そこで誰かと出会い、多くは傷つけられる関係になり、切断と孤絶を深めている。

b0090336_9593052.jpg話がどんどん逸れて恐縮だが、きっこの日記の印象の変化のことを考えながら、関連するのか、もう一人の顔が思い浮かんだ。それは雨宮処凛で、きっこより少し若い世代になるのだろうか、以前のささくれ立ったどぎつい印象が、最近は少し変わってきたように感じられる。このまま、もう少し変わった方がいい。変わったときに、初めて、「それぞれに背景があるね」とこちらも言える。社会権も生存権も奪い取られて、それでも人が生きなければいけないとき、人間は社会的存在であるから、ネットは、海の上に放り出された人間の最後の浮き袋のようなものであり、それにすがって生きていく以外に手だてのないものだ。私がやっていることは、マスコミに対抗して新しい言論の拠点をネットに築くとか、価値ある真のジャーナリズムを紙や電波からネットに移すなどと大言壮語を言いながら、実は、大通りの路上にムシロを敷き、空き缶を前に置いて、道行く人の善意にチャリーンと小銭を入れてもらって、それに身を小さくして頭を下げていることなのかも知れない。そうではないとは言えない。だが、そのような悲しい試行錯誤をする以外に、貧乏人が群れ集まって犇めき合い、互いに互いを傷つけ貶め合うしかない現状のネットの世界を、何かしら価値が生まれる世界に、価値が生産できると認めてもらえる世界に変えることはできないと私は思う。プロレタリアが自己を普遍化するのは、プロレタリアの現実を基盤にしたところからでしかない。

b0090336_9594355.jpgそう言えば、今度の辺見庸の話の中には、明らかにマルクスの思想的要素が色濃かった。週刊金曜日の中でも次のような言及がある。「マルクスの著作だって隠喩的知の宝庫です。『疎外』を彼以上に深く表現しえた人間はいません。こうした『知』を現代はテキストに閉じ込め、人間論、文化論から排除して資本主義総体の反省のための知として生かすことができなかった。結果、われわれは資本と人間の関係性を21世紀現在にいたるもただしく対象化できていない。労働の社会的性格が商品の交換価値としてあらわれ、愛や誠実といった徳目の内実も貨幣価値にすりかえられた。これをマルクスは『物象化』と呼んだけれど、それが極限まできて、内面の崩壊、人格の崩壊もつながっている。そして、社会がその成員の集団的な人格崩壊をまったく自覚していない。ということが現在の危機の最大の悲劇なのです」(P.19)。このような言説は、60年代や70年代にはよく見られ、もっと言えば論壇でよく流行った議論だった。70年代の後半から急速に廃れて、疎外論や物象化論は誰も言わなくなった。見向きもされなくなり、脱構築主義と新自由主義が世界を支配した80年代以降は、「クラい」「ダサい」悪性表象の貼札が押し付けられる思想性として排除された。が、辺見庸の指摘を受けるまでもなく、今ほどマルクスの疎外論や物象化論が説得的に響き、それが世界を救済する秘薬のように思われる時はない。マルクスの経済学が価値がないと言われたのは、その哲学性のゆえだった。

今、中谷巌がアメリカ近代経済学の無文化性と無哲学性と人間不在を言い、「金融工学」と同じ空疎な理論体系だったと自己批判するとき、マルクス経済学の哲学性というものが、時代が逆転して、価値のあるものとして雄渾に生き返ってくるような感覚に襲われる。丸山真男の政治学こそがまさにそうで、哲学のある政治学だから時代に嫌われ、新自由主義と脱構築主義によって排斥されたのだ。

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by thessalonike5 | 2009-02-05 23:30 | 辺見庸・鶴見俊輔・大塚久雄
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