
1年前の9/18に「
耳をすましてごらん」という記事を書いている。「
耳をすませば、確かな時代の流れが聞こえる。岩を穿つ民意の雫の音が聞こえる。新自由主義は、今、この国で確実に秋を迎えつつある」。1年前の今ごろ、同じようにマスコミが総裁選の報道ばかりで紙面と画面を埋め、参院選で示した民意を打ち消す政治が進行していたが、その中に、公明党が国と地方の格差や負担増の問題について政策を修正する協議を言い始めた新聞記事が小さく載っていて、政治が変わり始める徴候を感じて記事にしたものだった。あれから1年、小さな民意の雫の一滴一滴は間違いなく清流になり、いずれは奔流となって新自由主義の政治を押し流す勢いになろうとしている。1年間で国民の意識は確かに変わった。NHKの世論調査では、「構造改革を見直すべきだ」と47%の人間が答え、「構造改革を堅持すべきだ」と答えた15%を大きく上回っている。この世論調査の意味は大きく、NHKの総裁選報道の中でも取り上げられていた。

とくらブログの記事の中で、ある集会の参加者が「今の日本は内乱状態だ」と言っている。私もブログの中で何度も書いてきたが、今はまさに戦争の中にあり、生きている日常は悲惨な戦場であり、新自由主義軍が放つ砲弾の中をわれわれは黙々と歩いている。隣を歩いていた人間に砲弾が命中して顔を吹き飛ばされ、血が流れ、周囲一面に夥しい死体が転がる中を、次は自分の番だと覚悟しながらわれわれは前へ歩いている。無数の人間が犠牲になって死んだ。新自由主義に殺された。足立区梅島の一家無理心中事件、秋葉原の無差別殺傷事件。新自由主義が無辜の市民に襲いかかった戦争で、これまで一体どれくらいの人間が犠牲になったのか。内乱と言うのは正しくない。一方的な虐待と殺戮だ。ヒトラーのユダヤ人に対する戦争、スターリンの農民に対する戦争と同じ。小泉純一郎を司令官、竹中平蔵を参謀総長とする新自由主義軍が、まさにベトナム戦争の米軍のように圧倒的な軍事力で日本の町や村を襲撃したのであり、同じ日本人を洗脳で新自由主義のロボットにして、侵略軍の民兵にして、市民に襲いかからせたのである。

3年前のネットの中のことを覚えている。今と全く違って、本当に、そこは新自由主義の占領地域そのもので、新自由主義軍の兵営に迷い込んだようであり、郵政民営化に反対の論陣を張っているBLOGやサイトなどまるでなく、ネットの掲示板では、「ニートは死ね」とか「小泉改革がイヤなら北朝鮮に行けよ」とか、そんな凶暴で嗜虐的な罵声と小泉擁護の声ばかりで埋められていた。
とくらさんがネットの中を探していたように、私も必死で探していたが、そこには正論を立てている者はいなかった。掲示板の新自由主義者の群れをテレビで代弁していたのは、さすがに「死ね」とまでは露骨に言わなかったが、広島6区で立候補して毎日テレビに追いかけられていた堀江貴文だった。「1票1万円でいいよね」。堀江貴文は選挙区の原っぱで若者たちと車座になり、投票権は大事なものだから、カネを国家に払える人間だけが行使できるようにすべきで、カネを払えない人間に参政権は与えられるべきではないと力説し、それを聞いていた車座の若者たちは大きく頷いていた。人は何でも忘れやすい存在だから、忘れないように、3年前の出来事をあらためて書いておかないといけない。

長かった戦争が終わりを迎え始めている。今、世界で注目のニュースとなり、経営破綻が発表されることになったリーマン・ブラザーズは、2005年3月に堀江貴文がニッポン放送株取得に動いたときの黒幕で、特約条項付きのMSCBでライブドア株を引き受け、堀江貴文に800億円を融資したハゲタカである。ハゲタカはライブドア株を市場で売って200億円を一瞬で懐にした。そして郵政選挙を挟んで翌年の2006年1月、堀江貴文が証券取引法違反で逮捕され、ライブドア株は次の日から大暴落、現在、被害者総数3320名、被害額193億円に上るライブドア被害株主集団訴訟が続いている。1990年代の後半から、テレビの報道番組やワイドショーに外資系金融機関の人間が解説者として鎮座するようになり、証券会社の人間の言い分が政府の経済政策の正否を判断する基準となって通用していた。スタジオは新自由主義者の言説で染まり、テレビは新自由主義のイデオロギーを撒布して国民を教化するスプリンクラー装置となり、市場原理の正当性と自己責任原理の当然を視聴者に刷り込んでいた。
改革ファシズム。日本は世界の中でも極端で異様な新自由主義の全体主義国家になり、国民が自分で自分の首を絞めるように、政府に新自由主義政策の敢行と強化を求めていた。

国民全体の47%が改革の見直しを求め、特に傷めつけられた地方を中心に改革政治に対する失望と怨恨の気分が固まりつつあるのに、テレビでは相変わらず改革派の立場の人間が主流で、改革の必要性を叫び続けている。9/13のTBS「ブロードキャスター」では、フジマキ・ジャパンの藤巻健史と幸田真音が出て、改革の継続と復活をプロパガンダしていた。藤巻健史はファンド経営者で、JPモルガン社の元東京支店長であり、まさに新自由主義軍の最前線で旗を振る部隊長として一貫して円安政策を唱えてきた人物である。幸田真音については言うまでもない。幸田真音とか、白石真澄とか、90年代後半からテレビに出て、やたらと「市場が認めない」「市場が拒否する」と、「市場が、市場が」と言うのが口癖の女たちが目立ち始め、彼女たちの言う「市場」とは、何のことはない単にハゲタカの言い分だったのだが、テレビはそれを金科玉条のように崇め奉り、市場原理主義をせっせと国民に布教していた。政府委員を歴任して地位を得、遂に大学教授にまで出世した白石真澄は、今では派遣労働者の規制反対の論客として頑張っている。自覚した鋼鉄のネオリベギャル。9/14のテレ朝の「サンデー・プロジェクト」では、解説者席に座った双日総研の吉崎達彦が、例によって「もっと改革を」と総裁選候補に注文をつけていた。

改革派の論者の言うことは常に同じ。中身がなく、エコノミクスの知的素養がなく、「世界から見たら」「日本は遅れている」「取り残される」の言説の繰り返しだけ。この連中をテレビから追い出さなくてはいけない。今度の選挙を「小泉改革の是非を問う選挙」にし、改革政策の継続か清算か二者択一を国民に迫り、シロクロ決着をつけて、この国から新自由主義を一掃しなくてはならない。政治家や政党の口から二度と改革を礼賛する言葉を言わせないようにし、朝日新聞と読売新聞の記事から改革の言葉を消し、テレビの評論家の言辞からそれを抹殺しなければならない。そして売国奴たちに責任をとらせる必要がある。「改革」とは、まさに戦前の「国体」と同じ言葉の魔術であり、国民を自ら破滅に導くイデオロギーが一言で集約された言語であり、この言語に振り回されて、騙され、日本国民は新自由主義のレジームに結集し、外資に国富を献上し、阿片中毒のように自らを痩せ衰えさせて喜悦していた。「改革」への信仰と帰依が、没落させられる者が没落させる者を熱狂支持する
倒錯の政治を現出し維持していた。国民は、ハゲタカの収奪による没落を自己責任だと諦め、リストラも非正規雇用も低賃金も高負担も、自己責任だと認めて原因を個々人(自分)の所為にした。そして絶望して自殺し、無理心中し、それができない者はホームレスになり、餓死して行った。

10年前、新自由主義のエバンジェリズムが進行し、忌まわしい予感はあったけれど、まさかこれほど悲惨な現実になるとは思わなかった。想像もできなかった10年後が訪れている。10年後の事を考えると、本当に想像が成り立たない。情景は真っ暗でそこには自分はいないし、関心を持ちようがないのである。不安という言葉で言い表すのは正確ではなく、リアリティがなく、無と暗黒の世界しか頭に思い浮かばない。つまり、自殺して死んでいるか、ホームレスになって街を浮浪しているか、加藤智大のような選択をして刑務所に一生面倒を見てもらっているか、その三つしか10年後のリアリティは思い浮かばないのだ。我慢と節約で生きられるという限度を現実が超える。そして、そのリアリティ以外の可能性を見出そうとすれば、破滅を拒絶しようとすれば、パルチザンとなり、レジスタンスとなって、新自由主義軍と戦い、徒手空拳でも新自由主義軍に襲いかかり、その戦いに勝利して、国土からそれを一掃するという革命の発想を立てるしかないのである。そう考えるしか自分を支える術がない。生きる希望がない。それは私だけでなく、他の多くの日本人が次第に思い始めていることで、改革の社会経済システムが法制度で固められた中では、毎年毎年、どれほど前向きな努力と倹約をしても、多くの人が貧困の度を増して行かざるを得ない。いちど貧困に落ちれば二度と脱出することはできない。
自分たちは、いつ幸せになれるのか。いつ貧困の恐怖から解放されるのか。人生の夢を取り戻すことができるのか。普通の中産階級の市民の安定した仕事と暮らしを手にできるのか。今こそ解放のロードマップを明らかにし、新自由主義打倒の目標を高く掲げ、この衆院選をその決戦場にしなければならない。政権交代の実現が目的ではなく、二大政党制の制度定着が目的ではなく、新自由主義勢力を降伏させるための戦いとして選挙戦が定義されなければならない。

