
この間の反中プロパガンダ報道の激流の中で、私が最も関心づけられ、そして甚だしい不快感を覚えさせられた問題は、上野動物園へのパンダの貸与に関する報道だった。特に「報道ステーション」の放送の中で、上野動物園で幼児を抱っこした30代の母親が出てきて、「レンタル料が高すぎるのでパンダは要らないと思います」と発言した取材映像があり、それを見たときに背筋が凍りつく気分になった。この母親は本当に偶然にその場所にいた一般市民で、本心でそう発言したのをクリップに編集したのか。それともテレビ朝日が意図的に用意したやらせのサクラなのか。古館伊知郎の徹底した反中プロパガンダの報道姿勢とテレビ朝日の体質から考えれば、やらせの可能性は十分にある。予め何十人かの見物客にスタッフが事前のヒアリングを行って、その中で古館伊知郎の反中宣伝に都合のいい右翼的な意見を持ったサンプルを抜粋して、番組で使うべく「本番」用のインタビュー映像を撮影した可能性もある。

リップマンは『
世論』の中で、いかなる社会でも「世論を形成するものは少数のステレオタイプ化したイメージ」であると言い、
「ステレオタイプの体系が確固としている場合、われわれの注意はステレオタイプを支持するような事実の方向に向き、それに矛盾するような事実からは離れる」傾向があることを指摘している。この大衆の社会心理の特性を逆手に取れば、マスコミは画一的な政治的イデオロギーを正統化するために、それを証明する「事実」を媒体を通じて宣伝すればよいという情報操作の技術になり、実際にそうした手法がマスコミの手で繰り返され、本来は大衆の生活の中で多様であるはずの世論が、支配者が誘導する単一の政治的イデオロギーの結論の方向へと均斉的にアラインされるのである。テレビ報道がニュース番組で編集して流す「街頭インタビュー」のサンプリングには意図と目的がある。演出がある。そのことは、今日ではよほど情報リテラシーの低い人間でないかぎり、常識の範疇と言ってよいだろう。

けれども、上野動物園の母親の事例は、そうした前提の上でテレビを見ている人間にとっても驚愕のものであり、世論操作目的でサンプリングをした者も、サクラとしてカメラの前に立った者も、その常軌を逸した倒錯と狂気に慄然とさせられる。彼女の腕の中には1歳か2歳ほどの男の子が抱かれていた。その母親が、どうしてこのような悪魔的なイデオロギッシュな言動を発することができるのだろう。3年ほど前にNHKで「靖国参拝」の討論番組があって、例によって三宅民夫が仕切っていたと思うが、その客席討論参加者の中に壊れた右翼のロボットのように発狂して喚き散らす女がいて、金切り声を聞いていると頭痛がするので視聴を断念したことがある。その記憶が甦った。パンダを見たいのは大人ではない。子どもたちだ。子どもが喜ぶから、子どもがパンダを見たいとせがむから、親や祖父母は子や孫を上野動物園に連れて行くのである。パンダの貸与を拒絶する選択は、子どもたちの夢を奪う行為なのである。その事実がどこまで了解されているのだろう。

子どもは反論できない。動物園からパンダを奪われるだけだ。意味も分からない。これほど残酷で卑劣で倒錯した現実があるだろうか。石原慎太郎は「パンダを見たいなら見たい人間が中国へ行け」と平然と言った。中国を旅行するのにどれくらいの費用がかかるのか知っているのか。その石原慎太郎の発言を多数の人間が支持している。この日本の現実を「発狂状態」と呼ばずして何と呼べばよいのか。パンダは日中友好のシンボルであり、中国の国の至高の宝の存在だが、それ以上に子どもたちに最も人気のある動物でありキャラクターの存在である。かわいさとやすらぎの象徴であり、1歳とか2歳になった幼い子どもが夢中になって飛びつく対象である。パンダというのは、この世の中にあるポジティブの象徴なのだ。不快や不吉や嫌悪やそういったネガティブな感情を惹起する邪悪な存在(ヘビやドクロ)の逆側にある究極のプラスでポジティブなシンボルなのである。だから、その姿や名称はあらゆる商品に使われる。パンダの名前の付いた店舗や食品や日用品は無数にある。顧客に好感されるから。

例えば、小さな遊園地へ行くと、パンダの造形ののりものやパンダの顔が描かれたのりものは必ずある。子どもが喜ぶからだ。幼稚園に行くと、愛らしい大きなパンダの絵を壁に描いている。パンダの描かれた食器やかばんがある。子どものいるところに必ずパンダがいる。今度の一件で、これから日本の遊園地や幼稚園や絵本からパンダが消えるのだろうか。子どもにパンダが見たいと言われたら、それじゃ夏休みに中国へ行こうかと言うのだろうか。親は、絵本に描かれたパンダを見ながら、パンダが棲んでいる国は恐ろしい独裁国家だよと子どもに教え、子どもがパンダに持つイメージに恐怖心のソースを振りかけるのだろうか。こうして、今、日本で表象の錬金術が行われている。プラスシンボルをマイナスシンボルに失墜転落させる大掛かりな観念操作が行われている。パンダを至福のシンボルから邪悪のシンボルに切り替えるシンボル転換のイデオロギー手術が行われている。常識で考えれば不可能なことだが、日本のマスコミはそれを簡単にやってのける。これから、三国志や漢方薬や中華料理や、日本国内のあらゆる中国文化に「手術」の累が及ぶことだろう。

石原慎太郎や古館伊知郎が言っていることは、イデオロギーを裏返して喩えて言えば、ディズニーランドは米国帝国主義の邪悪な宣伝機関であり、ミッキーマウスは米国による文化帝国主義のシンボルだから、要らないから浦安を引き払って米国に帰れと言っているのと同じだ。ミッキーマウスを見たかったらアナハイムかオーランドに行けと言っているのと同じだ。ミッキーマウスやディズニーのキャラクターは商標登録して商標使用料を事業者から取っているが、パンダの商標使用料を貸与元の中国政府が取っているとは聞いたことがない(コアラの豪州も同じ)。1億円の貸与料はそれほど高額なのか。ディズニーランドの入場料は子どものパスポートが3700円、上野動物園の入園料は子どもは無料。子どもは無料でパンダが見られる。1億円を都(税金)が負担することで子どもの入園料が無料になる。ブログは提案したい。石原慎太郎は新銀行東京に400億円の追加出資をすることになった。都議会で問題になり、3月にはマスコミも大騒ぎをしたが、追加出資は議会の多数決で認められ、経営破綻が確実視されている新銀行東京に都民の400億円の血税が注ぎ込まれることになった。

この追加出資はすでに市民団体から不当な支出として住民監査請求を起こされているが、この400億円を399億円に1億円分だけ削る予算措置はどうだろう。400億でも399億でも新銀行東京への影響は同じだろう。新銀行東京に無駄な税金を注ぎ込むよりは、子どもの夢を守るためにパンダをレンタルした方がずっといい。石原慎太郎のポケットには築地市場の豊洲移転費用670億円という大金もある。東京五輪誘致の宣伝費用も莫大な予算を計上しているはずで、削れる贅肉は国交省並みだ。パンダの貸与問題についてマスコミで報道が盛んだった頃、上野動物園のそばでパンダ焼きの商売をやっている関係者が、上野動物園にはパンダはなくてはならない存在で、ぜひ今後も貸与をお願いしたいという声を載せている記事があった。私はその記事をネットで見たが、そういう関係者の声はテレビでは一切報道されなかった。石原慎太郎の会見での発言は繰り返し放送され、それを積極的にフォローする「街の声」は何度も画面に登場したけれど、石原慎太郎に反対する声は取り上げられなかった。「パンダ外交」という言葉がネガティブな意味で使われ、パンダは悪の使いのようなイメージに塗り固められた。

2ちゃんねる掲示板のネット右翼は、
善光寺作戦の成功に舞い上がり、法隆寺と唐招提寺に続いて上野動物園の電話番号をそこら中のスレッドに貼り付け回り、パンダ受け入れを拒否するよう上野動物園に圧力をかけろと全国のネット右翼に総動員をかけていた。ネット右翼の電話攻撃と石原慎太郎の上からの圧力で、上野動物園の関係者の心痛と疲労は大変なものだっただろう。邪悪なのはパンダではなくて右翼である。右翼のイデオロギーが邪悪なのだ。右翼はそれでいいだろうが、パンダを見れなくなる子どもはどうするのだ。ネット右翼にも子どもはいるだろう。幼いわが子がパンダを見たいと言ったらどうするのだ。中国まで行くのか。パンダ焼きの菓子店だけでなく、パンダのネーミングやイメージで商売している事業者は国内に多くいるが、彼らの売上や生活はどうなるのだ。右翼のイデオロギーを一方的に流布して関係事業者のビジネスを妨害している日本のマスコミはあまりに無責任ではないか。彼らはパンダがかわいさとやすらぎの象徴であり、製品やサービスの販売でプリファレンスを獲得できるから、パンダのネーミングやキャラクターを使ったわけだが、今度の右翼とマスコミによる不当なパンダ貶下の政治宣伝は、彼らの商品のプリファレンスに重大なマイナスの影響を及ぼしたと言える。
小さな企業の経営には深刻な打撃だろう。右翼と古館伊知郎のやることで日本経済にプラスなことは何もない。チベット旗の製造業者にサープラス・プロフィットを与えただけだ。

【世に倦む日日の百曲巡礼】
1990年のTBSドラマ 『誘惑』 の主題歌で 山下達郎 の 『ENDLESS GAME』 を。
このドラマはとても懐かしい。主演が篠ひろ子、助演が紺野美紗子と林隆三と宇都宮隆。
清純派だった紺野美紗子が初めての悪役で魔性の女を演じ、
篠ひろ子から林隆三を奪い、篠ひろ子の幸福な家庭を滅茶苦茶に壊す。
それを篠ひろ子が復讐し、林隆三を取り戻し、紺野美紗子を破滅に追いやる。
そこに若い宇都宮隆との愛が絡む。絶妙の不倫メロドラマ。
篠ひろ子は金妻シリーズで存在感を示して時代の花形女優だった。
紺野美紗子の従来のイメージを破った大胆演技も忘れられない。

このドラマと主題曲、それから浅野ゆう子の『親愛なる者へ』のテーマ曲『浅い眠り』。
この二つは私の中でバブル時代の記憶としてシンボリックに存在している。
それは、今、一般的に振り返って言うバブルの時代の明るい印象のものではなく、
とても淋しく孤独でやるせないもので、疎外された惨めな感覚として思い返すものだ。
バブルの時代は、本当に焦燥感と孤独感に溢れていて、
若かったけれど、とても精神的に苦痛な、喘いで息をする時代だった。
周囲に浮かれた華やかさはあったが、日常の生活の中に幸福や満足はなかった。
率直に言って暗い時代だった。
中島みゆきの『浅い眠り』を聞くと、そのことを間違いなく確信する。