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本と映画と政治の批評
by thessalonike5


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反貧困フェスタ2009 - 問題は個別にある。感動のシンポジウム
反貧困フェスタ2009 - 問題は個別にある。感動のシンポジウム_b0090336_1714998.jpg湯浅誠に対する質疑応答を振り返って、満足な成果を得られなかった点を含めて私の反省を言えば、ぶつけたのは単なる質問ではなく要請だったのだから、政治(選挙)にコミットせよと言うのであれば、もう少しメイクセンスな提案を準備しておくべきだったということだった。政策パッケージを各政党に提示してマニフェストに入れさせる。それにもやり方がある。「公開質問状」では確かにインパクトが弱く、マスコミが十分注目するところとならない。それなら、例えば、湯浅誠自身が各党の党首と討論して、政策パッケージの要求に対する諾否や具体的な回答を引き出す機会を作るというのはどうだろうか。週刊東洋経済の誌上討論の形式でもいいし、公開討論を日経BPが動画でネット配信してもいい。先日、湯浅誠は経済有識者会合で官邸に呼ばれている。麻生政権の人気取り策の一環だったが、湯浅誠がマニフェストの機に政策討論の対談に招けば、麻生首相は人気取りのために喜んで応じるのではないか。断れば自民党の失点になり、貧困問題や雇用問題に無関心という評価が世論になる。この企画をうまく実現できれば、選挙の争点形成に絡むことができるだろう。



反貧困フェスタ2009 - 問題は個別にある。感動のシンポジウム_b0090336_17143173.jpg湯浅誠は「岩盤」という言葉を使う。「岩盤」とは構造の比喩表現だ。湯浅誠を批判するなど恐れ多い限りだが、私なりに言えば、最近の湯浅誠は、目の前の貧困の現実を構造(ストラクチャー)の問題として捉える視角は鋭くなっているけれど、体制(レジーム)の問題として捉える観点が弱くなっているように思えてならない。どちらもあるはずだ。問題は両方から把握しなくてはならず、両方から問題解決の展望と戦略を与えないといけない。われわれ一人一人の力はとても小さいものだ。市民が責任を果たすべくツルハシで「岩盤」を掘り崩して行っても、体制の側は一気にブルドーザーで市民が掘った穴を埋め潰してしまう。貧困の再生産システムを押し固めてしまう。そういう現実がある。湯浅誠やわれわれ市民が、選挙を貧困解消のオポチュニティとして見なくても、経団連や新自由主義者はそれを貧困拡大・格差固定のオポチュニティとして見逃しはしない。選挙で彼らの陣営が勝利すれば、法制度を敷いて固めてくる。「岩盤」をセメントで補強する。政治的オポチュニティから目を逸らすことは、「岩盤」を崩す掘削機の可能性を無視することであり、「市民の責任」が精神論になることを意味する。

反貧困フェスタ2009 - 問題は個別にある。感動のシンポジウム_b0090336_17144319.jpg湯浅誠が政治について具体的な目標と工程表を持っていなかったのは残念だった。だが、この1年間を振り返ると、彼らは有言実行で、やるべきことをきちんとやって目標を達成している。昨年、反貧困運動の1年間のアジェンダを示したのは河添誠で、例の高木剛が出席した午前のシンポジウムの発言の中にあった。東京で始まった運動を面として横に広げる。全国各地に反貧困の運動拠点を作る。その目標を聞いて、私は、昨年が選挙の年と目されていたこともあったが、単に横に広げる陣地戦だけでなく、中央を一気に突破する政治的な機動戦が必要だと言って批判した。今年も同じことを言っている。昨年、総選挙はなかった。けれども、年末の派遣切りの情勢の中、彼らは見事に機動戦を作戦して、日比谷派遣村の戦いで大勝利を遂げた。彼らには確かな政治のセンスがあり、状況の流れをよく読んでいる。年齢は若いが、冷静で理性的で堅実な運動を進めていて、その手腕や才能に率直に驚かされる。スキルが高く、センスがいい。だが、中島岳志の戦前テロ論ではないが、いつ国家権力が牙を剥いて襲いかかって来るか分からないという危惧はある。それは、小沢一郎に検察が仕掛けた罠を見てのとおりである。新自由主義の体制は脅威の除去のためには手段を選ばない。

反貧困フェスタ2009 - 問題は個別にある。感動のシンポジウム_b0090336_1714562.jpg現在、彼ら新自由主義の側にとっての最大の脅威は、湯浅誠と反貧困や派遣村の運動であり、脅威除去の作戦を発動するとすれば、シンボル的存在である湯浅誠を狙い撃ちにするだろう。「犯罪」を捏造した逮捕もある。もっと巧妙で効果的な手法として醜聞工作がある。そうした危機感や不安感を抱きながら湯浅誠を見守っている者は、きっと私以外にも多くいるはずだ。それやこれやを考えると、自分の身を守るためにも早く政治的に動いて決着に出た方がよいのではないかと思われるのである。政治と言えば、昨年の「反貧困フェスタ2008」には、福島瑞穂が来て校庭で演説し、パネリストとして高木剛が参加した会場客席にも顔を出していたが、今回は政治家の姿は誰も見えなかった。それから、マスコミの取り上げ方が今年は静かで、ほとんど記事になって出ていない。湯浅誠や反貧困ネットの知名度や注目度は、明らかに昨年よりも今年の方が上がっているはずだが、報道の取材と露出が少なかったのは、高木剛のような大物の参加がなく、ニュース価値が低いと判断されたからだろうか。発表では、昨年の参加者が1600名、今年の参加者が1700名。この数字は実感とほぼ一致する。去年並みだった。私は当初、今年は昨年を大きく上回る人数が集まって、会場が手狭になるのではないかと予想していた。

反貧困フェスタ2009 - 問題は個別にある。感動のシンポジウム_b0090336_1715918.jpgそうはならなかった。企画は、一橋中学校の会場規模でちょうど収まるように設計されていて、1700名という数は主催者の狙いどおりだったと思われる。昨年は、高木剛を目玉にして集客をした。今年は、反貧困ネット事務局長の湯浅誠自身が看板になっている。そしてまた、1700名という数は、派遣村のボランティアの延べ人数である2000名に近い。午後のシンポジウム会場で特にその感を強くしたが、昨年と同様、若い人が多く参加していて、30代半ばから後半、湯浅誠と同じ若い世代で、日比谷派遣村にも応援に駆けつけて、反貧困関係の運動に積極的にコミットして、その中で仲間を作っている感じの人たちを多く見かけた。頼もしく感じる。特に若い女性たちが力強く運動を支えていて、昨年と同じ好印象を受けた。その生き生きとした雰囲気こそが、この催し物の醍醐味なのだ。日本の将来に希望を見出す気分になるのである。彼女たちは経験の中で自信を深めている。顔つきが変わった。昨年の校庭での出来事を思い出しながら、シンポジウムの会場の体育館でそんなことを考えさせられた。企画について再度考えると、中心メンバーたちが講演やマスコミ対応で多忙になり、去年ほど「反貧困フェスタ」に集中してリソースを投入できなくなっている事情もあるのかも知れない。ほどほどの企画で抑えている感じがしないでもない。

反貧困フェスタ2009 - 問題は個別にある。感動のシンポジウム_b0090336_17152126.jpg昨年は、シンポジウムに河添誠と関根秀一郎が出て気を吐いたが、今年は2人の姿を見なかった。こういう場所に行くと、この両雄の個性、そしてガテン系連帯の小谷野毅と全国ユニオンの鴨桃代の姿を見ないと寂しく感じる。派遣村オールスターズの顔ぶれに再会して、彼らの元気を確認したい。だが、主催者側もなかなかよく考えていて、今年の主役は、伊藤みどり(働く女性の全国センター)と赤石千衣子(しんぐるまざあず・ふぉーらむ)の2人の女性陣、そして中村光男(企業組合あうん)の3人だった。猛者のキャラクターがいる。いろいろな英雄が控えていて、次々に勇姿を登場させる。まさに人材雲が涌く如し。反貧困なり派遣村の集会に行って楽しいのは、こういう力強い一騎当千の個性群像を見られることである。伊藤みどりと赤石千衣子のナショナルセンター批判の前に、連合代表の龍井葉二は顔色なく声を失っていた。1/15の集会もそうだったが、派遣村オールスターズによってナショナルセンターが批判される。そのときに会場が沸く。拍手が上がる。ナショナルセンター3団体の代表は、しかし反貧困や派遣村の集会に顔を出さないわけには行かず、言わば針の筵に座らされる形になる。今後も同じ図が続くだろう。いい気味だ。そして中村光男。初めて見たキャラクターであり、いかにも反貧困系の重鎮という経歴の人物だが、今回のシンポジウムを圧倒していた。アジテーションが素晴らしい。

反貧困フェスタ2009 - 問題は個別にある。感動のシンポジウム_b0090336_17153389.jpg社会運動とか労働運動というものは、本来楽しいものなんだよ。垣根を越えてと簡単に言うが、問題は常に個別的にある。個別の違いを見ない運動は駄目で、違いを超えてではなく、違いを受け止めて運動を進めないといけない。ナショナルセンターは全労働者に行動の道筋を提起せよ」。気分爽快となるアジテーションだった。シンポジウムは、前半、9人の労働者が前に立ち、各自抱え込まされた問題を披露して展開した。報道記事にもなっているが、パナソニックのショールームで17年間勤めた福島の女性は、正規で採用されながら会社に勝手に派遣社員にされ、昼休みも取れない激務と夜11時までの残業を強いられながら、派遣社員であるが故に残業手当も与えられず、簡単に雇い止めにされ、現在、失業中の夫を含めた家族4人で生活する苦境を語っていた。群馬県の損保会社の女性は、身障者雇用枠で採用され、正社員と同じ仕事を任されながら嘱託社員という身分で待遇を差別され、昇給も賞与もないまま使い捨てられた話をした。富士通をリストラされた50歳の男性正社員も出た。最も心に辛かったのは、最後に登場した身障者施設で働く人の訴えで、例の障害者自立支援法の「応益負担」によって、生きる場を奪われようとしている惨状を訴える渾身の叫びだった。その内容はほとんど聞き取れなかったが、訴える声が痛切で、目を上げて聞くことができなかった。

NHKの『ワーキングプア?』が思い出された。人間の尊厳の問題なのだ。人間の尊厳を否定する社会と、それに対する抵抗の呻き声なのだ。あの悲痛な叫び声を聞いて、この日本の国の現実に悲しい思いをしない者はいない。どうしてこのような制度が公的にまかり通るのか。中村光男と伊藤みどりは、問題は個別的だと言った。こうして、個別の問題を順番に語り上げることこそが労働運動にとって意味のある集会の形式で、個別問題を捨象して一般化した挨拶や提起をナショナルセンターの幹部がいくらやっても、それは無意味だと言い切った。説得的な運動論だ。『ワーキングプア』を制作した鎌田靖も番組論としてそのような意味のことを言っていた。湯浅誠も『反貧困』の中でそういう主張をしていた。個別のケースの中にこそ全てがある。抱え込まされた現実がありのまま語られるときこそ、それを突破すべき社会の課題がそのまま見つけられる。感動的なシンポジウムだった。主催者と関係者に感謝したい。

反貧困フェスタ2009 - 問題は個別にある。感動のシンポジウム_b0090336_17155465.jpg

by thessalonike5 | 2009-03-31 23:30
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