本と映画と政治の批評
by thessalonike5
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ハンナ・アレントのマルクス批判 - 恐慌の時代の説得力の行方
b0090336_135326.jpg2/17に行われた慶応義塾大学法学部の入試小論文にアレントの「公共空間」論が出題されている。直接の出典は和田紳一郎の『メディアと倫理』だが、アレントの「公共空間」なり「公的領域」の概念についての知識や理解、そしてある程度の関心がないと、受験生は問題の解答を論述することが難しいだろう。どうやら他の大学でもアレントを小論文の題材に使うことは頻繁に行われている模様で、予備校の小論文指導でも「常連」の扱いになっている。時代は変わったものだ。われわれの頃の倫理社会の教科書にアレントはなかったし、大学の講義で取り上げられることもなかった。現在、日本においてアレントやアレントの「公共空間」論は、すでに当然で所与の「常識」になっていて、18歳の受験生レベルの知識となり、日常世界の一部になっている。もっとよく考えると、現在の日本の政治学の世界で、アレントがまさに中心で頂点で標準の思想家の位置を占めているのだ。昔の丸山真男やマルクスとウェーバーの聖哲のポジションをアレントがリプレイスして、アレントによって政治学や社会科学の基礎が構成されている。



b0090336_11564487.jpg10年ほど前の論壇やアカデミーの状況を思い出すと、アレントは現代思想市場で売れっ子の思想家だったが、現在ほど絶対的で標準的な地位を占める存在ではなかった。当時は、フーコーとハーバーマスとアレントの3人が、特に社会科学系の現代思想としては脚光を浴びて注目されていて、総力戦体制解体後の世界を言い挙げる言説の「業界」のマストの存在になっていた。10年経ち、3人のバランスに変動があり、アレントが唯一のスタンダードになって残った観がある。アレントがスタンダードになった事情の一つに、保守でも左派でもアレントを担いで神輿にできるという政治的な中立性があり、川崎修もの中でアレントの保守的性格を指摘しているが、右でも左でもアレントをご本尊にできるという使い勝手のよさがあるだろう。例えば、歴史主体論争で加藤典洋が都合よくアレントの「公共性」を使い回して高橋哲哉への批判に応用するとか、無能で目立ちたがり屋の脱構築右翼の佐伯啓思が丸山真男を誹謗中傷するときにアレントを使うとか、そういう醜悪な言論行為が至るところで行われていて、右でも左でもアレントは共通の神なのである。

b0090336_1156563.jpgアレントがこれほどの現代の絶対神になった理由の一つに、アレントのマルクス批判・マルクス主義批判の説得力があると思われる。その要点は二つあり、一つはマルクスの労働論に対する根本的な批判の成功と、もう一つは政治の哲学からの解放(脱プラトン)、政治の歴史法則からの解放、公共空間における政治の復権の主張である。そういう表現で当を得ているかは自信がないが、川崎修によるアレントの整理を読んでも、思想の中身として間違いなくこの二つがあり、その二つは論理的に繋がっていて、古典古代と近代西欧に至る思想史の流れが的確に把握された上での根本的なマルクス批判となっており、見事な説得力として迫ってくる。なるほどと頷かされる。マルクスの思想がマルクス主義となり、20世紀共産圏の全体主義の現実を媒介した謎が解き明かされる。私も、学生のころ、アレントなど全く知らなかったとき、マルクス主義が全体主義のイデオロギーに転化する理由について、その思想の構造や生理そのものから解明したいと考えていたことがあった。アレントはそれをやっている。しかも概念の意味の歴史的変転を追跡するという思想史学の方法を駆使してやりきっている。

b0090336_1157772.jpgアレントが神になるのは当然だ。哲学からのマルクス批判の理論として、アレント以上に完璧なものはないだろう。学生時代の自分の関心を振り返って、『ドイツ・イデオロギー』の中に出てくる分業論に疑念を感じていたことを思い出す。若いマルクスは「労働の分割の止揚」という目標を言っていて、それがコミュニズムの思想の核心をなしていた。肉体労働と精神労働の分割の止揚、この思想が、簡単に言えば文化大革命の思想に直結し、ポルポト的な貨幣と市場の廃止、都市の廃止と農村への強制移住の政策に直結して行く。根本的な矛盾を孕む無理な思想が政治体制に固まると、あの20世紀の全体主義の悲劇が導かれる。知識人が迫害され、一人の党指導者以外はロボットの生き方を強制される。そうした危険思想の内在的な契機が分業廃絶論の中にあるのではないかという直感を持っていた。が、同時に、その危険思想は人類の最終的な夢を感じさせる大いなる魅力をも備えていた。マルクスの「プロレタリアート」は、疎外された底辺のところから運動の中で他者と結びつき、奪われたものを回復し、自己の一面性を克服して人間的普遍性を再獲得する。そういう人間のドラマが措定されている。

b0090336_11571720.jpg派遣村の現実まで行き着いた今日の日本の現状で、果たして、アレント的な「労働・仕事・活動」の命題は、どこまで普遍的な説得力としてわれわれに妥当するのか。「私的領域」と「公的領域」の区分は、われわれの現実生活の中でどれほど有意味な概念なのか。年収200万円以下の収入しかない派遣労働者における「労働」と「仕事」と「活動」の区別はどう説明できるのか。前提はあるのか。加藤智大の自動車工場の勤務と休日の秋葉原通いと、アニメと掲示板サイトの書き込みの中で、アレント的な「個人」や「自由」や「政治」や「公的領域」はどこまで基礎づけられ、理論的妥当性が一般に確信づけられるのか。アレントの理論は貧困問題に解決を与える展望を提供するのか。アレント的な「活動・仕事・労働」よりも、マルクス的な「労働の二面性」と「再生産」の方が説得的に響く時代になっているのではないか。派遣切りされ、ネットカフェ暮らしとなり、路上生活者となって日比谷公園の炊き出しに並ぶ身になったとき、「活動」と「公的領域」の現実性はあるのだろうか。何故なら、それはすでに他人事ではないからだ。誰でも定職を奪われれば派遣村の路上生活者に墜ちざるを得なくなる。少しリアルに考えれば、それは自分自身の姿だと誰もが気づく。

b0090336_11572822.jpg恐慌と戦争の時代になり、パンデミックの時代になり、マルクスとアレントの思想的位置関係は微妙に変動しつつあるように私には見える。人間は果たして古典古代的な公共空間でアゴーンする存在なのか、それとも近代的な(労働だけが全面化する)労働者の存在なのか。目の前の現実が思想家の理論の説得力を評価づける。誰の説明に頷くかは、生きている世界の実感が決めることだ。アレントが現代の唯一神であることに私は全く異存はない。日本の大学生が政治学を学ぶということが、丸山真男ではなくてアレントを学ぶことと同義であることについて、私は特に異論はない。それでいいだろう。丸山真男はアレントを尊敬し、アレントから多くを学んでいて、最晩年に座談の席で語っている(ソ連崩壊後の)社会主義論もアレントから学んだものが内容になっている。二人は同じ時代を生き、同じ全体主義の経験の中で苦闘した人生を持つ思想家であり、思想の中身はよく似ている。特に欧米人から見て、丸山真男はアレントによく似た思想家に見えるだろう。マルクス主義に対する立場や距離もそうだし、基礎がドイツ哲学にある点も同じだ。私から見れば、アレントは西洋の丸山真男である。現代思想にどっぷり漬かった日本のアカデミーが、アレントを崇拝しながら丸山真男を貶損するのは奇妙と言うほかない。

b0090336_11573940.jpg脱構築のアカデミーに尋ねたいが、神であるアレントはジェンダーやポストコロニアルの問題にどう言及しているのか。私は、丸山真男と同じようにアレントを尊敬するが、アレントを神と崇め奉る日本のアカデミーや政治学界は尊敬の対象にならない。私の不満は次のようなものである。日本にはアレント研究者は掃いて棄てるほど多いが、どれもアレント紹介者にとどまっていて、アレント学者として日本の学術世界や政策世界に大きな影響を与えている者がいない。例えて言えば、ウェーバー研究者だった大塚久雄のような存在がいない。日本のアレント研究にとって必要なのは大塚久雄のような存在である。ウェーバーは大塚久雄によって社会科学の方法となり、西洋経済史研究の基礎視角となり、さらに日本の経済政策の根本を規定する社会哲学となった。それは官僚と実業の世界にも多大な影響力を持ち、日本の高度経済成長の方向を舵取る政策原理の一つとなった。丸山真男が新カント派とマンハイムで徳川期の政治思想史を描いたように、アレントを使って本格的な政治思想史の作品を提出する学者が出なければいけないはずだが、そういう人間が出て来ない。例えば、アレント的な視角と範疇で戦前戦後の日本共産党史(思想史と運動史)を切り描くというような政治学が出てもいいはずだが、それがどこからも出て来ない。

私の日本のアレント学に対する不満はそういうところにある。最後に、アントニオ・ネグリはアレントをどう評価しているのだろうか。マルクスを継承するネグリにとって、アレントによるマルクスの労働論批判と「活動・仕事・労働」の一般論の定置は見逃すことのできない問題だと思うが、どのように受け止めているのだろう。

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by thessalonike5 | 2009-02-20 23:30 | その他
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